エイサー論

「沖縄舞踊の歴史」(矢野輝雄著)より

「エイサー沖縄の盆踊り」(宜保榮治郎著)

 

エイサーに不可欠=三線の由来

 

 

 

@中国(唐三線)→琉球(三線)→日本(三味線)と変遷した。1372年 琉球王国の明への招諭(朝貢)の際、1500年前後の尚真王の治世に権力者に渡り、歌の伴奏楽器として発展

A日本へのサンシンの流入

「糸竹初心集」(1664年中村宗三)に「永禄年間(1558年〜1569年)に石村検校なる琵琶法師が琉球で見つけ、京都で改良し、弟子の虎沢検校に、虎沢は山野井検校に伝授して広まる」の記述あり。

 「御湯殿上日記」の天正8年(1580年)の条に「河原の者山しろといふ、しやみせんひかせらるる」という記述→雑芸能の河原者はサンシンをすでにひいていた。

 

エイサーはどうして始まった?

 

 

 

 京都の浄土宗の僧侶=袋中(たいちゅう)上人が沖縄に念仏踊りを伝えた。それが、エイサーの原型となった。

袋中上人とは?

 「本国念仏者ハ万暦年間、尚寧王世代、袋中上人ト云僧(浄土宗、日本人。琉球神道記之作者ナリ)渡来シテ、仏経文句、俗ニヤハラゲテ、始テ那覇ノ人民ニ伝フ、是念仏ノ始ナリ」〔「琉球国由来記巻四」(1713年頃編纂)〕

「十五年、扶桑の僧袋中、国に至る。日本国浄土宗僧袋中、本国に雲遊す。逗留すること三年にして、神道記一部を著作す。且仏教の佳句をせき取し、以て俗語に和して之を那覇人民に教ふ。日夜之を誦し、之を読み、人をして善心を興発し、悪志を懲戒せしむるなり。本国の念仏、此より始まる」(「球陽」尚寧王十五年)

 この沖縄の史料にあるように、袋中上人(1552年〜1639年)は京都の浄土宗名越派の僧侶で辺境伝道に力を入れた。中国(明)に渡ろうとして三年間滞在。念仏訓話を口説(七五調)に変形して流布させた。その際に、浄土宗の「念仏踊り」の手法も取り入れた。「仲順流り」「継母念仏」「親の御恩」などがそれにあたる。これが、エイサーの原初形態であった。沖縄のもっとも古典的なエイサーの服装は、黒装束に裸足というスタイルがそのことを示している。

 (本土でなくなった「念仏踊り」が沖縄で残っていることが不思議です。)

 帰国後(1606年)、上人60才時三条大橋近くの壇王法林寺の住職となる。「琉球神道記」「琉球往来」上下巻を著す。

 1609年、薩摩侵攻のあと、尚寧王は京都で袋中上人と会い、「袋中上人肖像」や琉球漆器を送った。(現存)