恨(ハン)之碑 歌舞団感動文集

1999年8月11日〜13日 恨之碑除幕式ツアーの感動文集です

「恨の碑」感想文

 碑が建つ小高い丘に立った時、日本に連れていかれた人々もこの風景を見ていたんだと思うと、胸が痛んだ。そこには「平和」があった。山に囲まれた小さな町は唐辛畑が広がり、人々はのどかに暮らしていた。あの日、日本人が足を踏み入れなければ、彼らは愛する人と静かに幸せな人生を送っていたにちがいない。半世紀もの年を経て、彼らはこの丘から家族を見守ることができたのだろうか?日本全国から集まった「想い」によって碑が建つことができた。だけど彼らの碑がきれいになくなる事はないだろう。この日をスタートに私たちは2度と恨が増えないように、大きな力に立ち向かわなければならない。私たちが頑張ってもどんどん進められる軍国への道、だけど、笑顔で私たちの手をにぎって迎えてくれたあの人たちに勇気と力をもらった。「よーし!」と気持ちを引き締めてあの町を後にした。

 年おいたおじいちゃん、おばあちゃん、今度会う時も笑顔で手をにぎりあえるような国にするからね。


分科会感想文

 歌詞を見ながら聞いてくれるかナと思ってたら、誰も見てなくて、わかってもらえるかなと心配でした。エイサーを踊り終わった時に文芸をしているおじいさんが「こんな田舎に飛行機に乗って、バスに乗って来てくれてありがとう。私たちは76才という年になっても、こうして文芸をしています。若者たちは皆都会へ行ってしまって文芸をしてくれる者がいないのです。でも、あなたたちは若いのにしっかり文化を伝えていて、うらやましいです。」と言ってきました。喜んでもらえて、来てよかったとバスの長時間の旅の疲れがとれました。(Y.T)

 英陽(ヨンヤン)は山の中のきれいな村でした。恨之碑が工事中だったのはびっくりでしたが、すべては初めての試みなので、なんとか間に合ってよかった。行政の責任ある人も出席していたし、近所のアボジやハルモニも暑い中できていた。豆多さんがあいさつをした時、同じ日本から来た者として、自分が発言をしているかのように緊張した。沖縄戦でなくなった軍夫たちが思いうかべたであろう、トウガラシ畑や緑の山々を見て、軍夫たちのことを思った。おじいさんが「ありがとう」と日本語で語りかけてきたのがうれしかった。

 今回は、ほとんど準備ができず、自分としては満足できる演奏はできなかったが、参加したことに意味があると思った。老人農楽隊にはおどろいたが良かった。
 一回目ということでは、成功だったと思う。(また英陽に来るのはたいへんだが)(T.S)

 まず、韓国という国のイメージが変わりました。(恐い、狭い考え方の国というイメージを持っていた)それはちがっていて文化と緑とか環境とか自分たちの考え方とかすごく大切にしている国なんだと思った。日本にいる私たちの方が画一化していて主張がなくて狭いんだなあーと思いました。


恨之碑の感想

 あの碑の前に立った時、座っていた韓国の人たちを見ていて、涙している婦人を見た時、関東の“祈り”のうたを聞きながら感じたこと・・・・・・

 “私たち日本人のやってきた罪の深さ”を肌で感じることができました。教科書で本で歌でいろいろ通じて感じていたつもりでも、やっぱり実感はちがうと思った。この記念すべき日にこの地に立って、みんなといること感じることの重さを、ずうーと今も思っています。
 韓国に来てこの実感をちゃーんと自分の中に入れられたこと、とても良かったと思っています。
 これからも、やれることからやっていきたい、交流したいと思っています。


舞台での反省

 練習不足の不安が全て舞台ででてしまった。新曲“ひとひらの花”大好きになって2人で歌えるなんて・・・とてもうれしかったのに、集中力が不足していて感動を伝えきれなくて、オロオロしていたり、反省している自分ばかりで、とても落ち込みました。西野さんに本当に申し訳なかった!と思いました。この反省を大切にしてコンサートでは思いっきり自分なりにみんなと歌っていきたいと思っています。


コンサートに向けて少し

 語りが多いので、もう少し歌にかえたり“笑い”にかえたりしてもいいと思う。全交のまじめさが笑いの中にチラチラと入ってきて、もっと幅広くなっていくのがいい。

 シナリオを作る時、一般の応募とか、スタッフを募集するとか、いろんな人の雑談を記録しておいてそれを入れるとか、本で歌で映画でテレビで演劇で日常生活で特に気になること、思いっきり話したいことなどテーマを決めてフリートークするとか、日数かけていろいろと話し込むとか、一度今まであるパターンをくずしてもいいかも・・・世間に社会に迎合するのではなく、全交の求めるシナリオの中に高い笑いを入れて欲しい。うまく書けませんが・・・まずいろんな意見出し合い、やっていきましょう。

 本当に皆さんお疲れさまでした。(O.K)


「恨之碑」の除幕式に参加して

 “日の丸君が代法案”が国会を通過した後だったので、日本人がアジアの人々にどううけとめられているのか、考えると緊張感と一方で自分の取り組みの不充分さ不勉強さが痛感させたれた。今後、自分たちの日本政府に対するとりくみ、また平和な地域をつくるとりくみをがんばりたい。


「コンサート」

 プンムルの老人たちとともに踊れたことが印象的であった。

 侵略戦争の犠牲者の人々の前で歌うのは、自分の立場・情勢が問われた。(K.K)

 除幕式、像実物を目の前にして、その胸をはり堂々とした姿に圧倒される。踊り終え、「ありがとう」と手をにぎり話しかけてこられる年配の方が何れもうれしく、“これから「会館」でも踊りますのでぜひ見に来て下さい。”と言ったとの反面、とまどいもあった。むりやり言葉を奪い、むりやり使わせられた日本語。いやな思いの多い言葉。私たちに自分たちの気持ちを伝えるために使われた。うれしくもあり、申し訳なさでもいっぱいになる。私の気持ちを伝えられるよう、ハングルを覚えたいと思った。(K.H)

 除幕式では集まっている人たちの顔を見、発言を聞いていて、あらためて日本がした侵略、その後も多くの人たちの人生を狂わせた事実の重さを知った。横断幕の絵を広げたが反応はどうだったのだろうか?最後の展望の部分を描いたが「そんな簡単なものじゃない」と思われていないか?不安。現地の一般の遺族会の人たちの目が気になった。

 コンサートはトータルの責任者不在でヤンさんと私とイ・ヒジャさんの甥(通訳してくれた)、佐野さんでなんとか乗り切った。特にヤンさんは急遽、ノレヤ・ナオノラのピンチヒッターで来ただけにも関わらず、全てを支えてくれた。会館との交渉、私たちのステージのミキサー)各々が自分の範中ではないと割り切っていたら、コンサートはできなかった所だった。皆の献身的な協力があったからこそで、それが現地の農楽隊の人にも通じたのか共にステージを盛り上げてくれ感激した。式で感じた不安が少し和らいだ。

 ヨンヤンへ向かう道中、夕焼けを見、西野さんの「同じ空の下」を思い浮かべた。日本でなら夕焼けは海へ沈んでいくイメージ。でもここでは大陸の方へ沈んでいく。この町が夜になっても山の向こうの町が朝になって人間の営みはつながっているんだなーと思った。(O.T)

 今回恨之碑の建立に向けて自分がこの事業に参加することの意味を整理できないままその日が来た感じがあった。全交をはさんで合唱練習に参加できなかったことも、全交が終わった後慌ただしく横断幕をつくってしまったこともあったので、気持ちの方がついてこなかったところがあったのです。ただ、自分自身の中では、在日の人々とのつながり、これまでの韓国の人たちとのつながりから避けては通れない問題と感じていたので、今回多少無理をしてでも参加したいという思いがあったのです。除幕式参加して、快く迎え入れて下さった遺族会の方やお世話になった文芸連帯の皆さんらとの交流を通して自分自身が一歩韓国の人たちに近づけた気がします。恨之碑に寄せる絵もおおむね受け入れられたようでほっとしています。近い将来、また来られたらと思います。碑の前での踊りにも感動しました。悲しみをあのような形で表現できること、すばらしいと思います。


文化交流会について

 文芸連帯のステージ、歌舞団のステージと地元の人たちのステージと一緒につくる舞台ということで、どうなるかと思っていましたが、色々と不具合はありながらも結果よかったものになったと思います。農楽の人たちとのステージは最初驚きましたが、音楽を通じて楽しい気持ちが共有できて非常によかったと思います。舞台の上から客席によびかけてステージを進めていくのもいいなと思いました。(Y.T)

 前日の夜「恨」のことについてずっと考えていました。除幕式に出席して、交流ステージに出て・・・でもまだ答えは見つかりませんでした。今の日本の状況を考えるとそんなに簡単に出せるものだとは思いません。日本に帰ってこれから僕が何をしていくのか・・・そのことで本当の「恨」を見つけたいと思います。(T.J)

 除幕式に参加できて、本当に良かったと思います。除幕式の間異国の地で苦労しながら生活している一世や、日本に連れて来られ祖国に戻れぬまま亡くなっていった一世たちの事、また戦後50年以上たっていながら3世、4世といわれる若い人たちがいまだに苦しい情況におかれている事など様々な事を思いながら参加しました。住んでいる国は違いますが、同じ民族として除幕式に参加できて、感激しました。

 文化交流のステージは、私自身練習やリハーサルに全く参加できていなかったので皆と一緒に立つ事、ためらいましたが、終わってみるとみんなと一緒に歌えて良かったなと思います。(A.T)

 碑はとても素晴らしく、見る角度によって軍夫が威厳であって堂々としているように見えた。今回除幕式で踊るということは、メーデーとは全然違っていた。真実を知っている目の前で日本人の私たちがどう思われているのか、どう踊ったらいいのかと思っていた。エイサーを踊ることで思いが伝わるのだろうかと。文化交流会では歌も歌わせてもらい、思いをそのまま自分では歌にのせたつもりだった。

 アピールも入り遺族の方にも、私たちの思いを知ってもらうことはできたと思う。けれど、恨之碑をつくり思いを伝えたことが本当に人としてつながる事のスタートだと思った。

 今また同じ道を行こうとしている日本、遺族の方たちがどんな思いで今の動きを見ているのか、それでも碑を通じて人としてつながる事を求め、歓迎してくれた事を受け止めたいと思った。

 これから本当に歌舞団として広げていく事が改めて大切だと感じたツアーでした。・・・兵庫の仲間が多く参加して一緒にこの経験ができた事はこれからの宝になるし、パワーにできると思っています。(T.Y)

 従軍慰安婦の事実を知り、その方の歌をうたわせてもらうようになって自分自身に勇気をもらい、ぜひ事実があった土地で、その事が今も苦しんでいる方たちの前で歌わせてもらいたいと決めた恨之碑ツアーでした。その日が近づくにつれ、だんだん行くのが怖くなっていました。実際、歌舞団に出会うまでの私は韓国に対して反感を持っており、なぜ何十年前ものことをいつまでも恨んでいるのだろうと。歴史上から言えば現代に一番近い事実だけど、何千年前にも日本に反対のことをしてきたのではないのかと真実を知ろうともせずに思っていました。その事を思うにつれ、日本人として日本人によって人生を狂わされた方たちの前で、果たして歌えるのかどうか、どんな目で見られるのだろうかと怯えばかりでてきました。韓国の地に降りて出会った方はみんな私が日本人だと知っても嫌な目はしなかった。あの遺族会の方たちからは「遠い所ありがとう」「ごくろうさん」と日本語で話しかけられた。それがかえって私にはきつかった。何十年もの間苦しんだろう日本人を恨んだろう・・・なのに日本人に「ありがとう」と言える韓国の方の心を思うと、日本人としての自分の今の姿を考えずにはいられなかった。

 「カタリーナへ」での歌詞で「伝えずにはいられない」というのがありますが、「伝えずにはいられない」ほど私は犠牲になった方々の心を知ろうとしていたのか、その人たちのその後の人生がどんなだったかを考えていたのかどうかを思い返させられました。ひとつの命をひとりの人間を考えられる日本人に人間になれるよう、これからも歌舞団として歌を通じて生きていけたらと思いました。

 また、本当に自分の言葉で身近な人たちに伝えていけるようやっていきたいです。(H.N)


(大げさかもしれませんが)私たちは歴史的瞬間を創った

 「韓国と日本の架け橋」といっても過言ではないと思います。まだまだスタートラインに立っただけですが、そこからしか始められないし、ここから始まっていく、そう思います。今回のツアーを通して“真の国際連帯”に触れることができました。


恨之碑〜胸に迫るもの

 デッサンだけしか目にしたことがなかった私にとって実物は胸に迫りました。特に目隠しされていても尊厳は失われていない朝鮮人が心に残りました。


私たちはマイナーではない

 日本の不穏な動きに日本人よりもはるかに敏感に鋭く注視しているアジアの人たち。そういう人たちに出会うたびに私たちはマイナーな存在ではない。今こそ多くの人とともに進むことが大切だと気付かされる。そういう確信をもって歌舞団活動にも取り組んでいければと思う。でも、これがむずかしいよなあ。(K.Y)

 建立の場所に着いたとき、廻りが畑ばっかりだったので、え?畑でエイサーおどんのん?と思いました。(ネタ)

 反日感情が高いということを聞いていたので、厳粛な態度でのぞまなければならないと思い、慎むところは慎み、踊りました。

 多くの御遺族の方々が我達に笑顔で握手を求めてきた時、何が我達に望まれているのか、何を問われているのか我達が想っている以上に希望されているのだと思い、この恨之碑行動を帰って伝え、広めていかないといけないのだと感じました。

 まさに、連帯(ヨンデ)は海をこえてだと思います。(T.K)

 今日がはじまりという感じをつよくした。この人達とはいや今後の運動の展開・発展すれば何回も交流の機会はできてくることと想像している。文化交流を通じてさらに深く互いを理解し、仲良くなっていくとともに、より幅広く知りあいの輪を広げられると思われる。

 文化交流を通じて、アジアの連帯をひろげていくその展望を一歩一歩進めていける可能性を強く感じている。(S.N)

 「恨之碑」除幕式に参加して「二度と戦争をさせない」ということをはっきりできたことが良かったと思う。

 日本国民の一人として過去の戦争について謝罪することができない自分がいることもハッキリして・・・(T.H)

 勉強不足の私にとって日本においてのKOREANの人の感情まえはなかなか伝わらないのが、良くわかりました。言葉での学習では、わからない実際に韓国に来て感じました。これは沖縄でも同じ経験を過去にしました。本土と沖縄の温度差、そして今回、日本と韓国との温度差、これをどう解消していくか私たちの役目かな?と思いました。

 話はかわって、恨之碑の除幕式で、なんだかナミダがでました。このナミダは僕なりに感ずるのに沖縄戦で無念にもこの世を去った霊(たましい)が、祖国に帰してくれて“ありがとう”という思いを感じ、ナミダが出たと思います。来てよかった!(T.K)

 恨之碑の除幕式に参加し、遺族の方たちの前でエイサーを踊った。参加するにあたって、彼らの日本に対する気持ちを頭に入れて踊らなければという気持ちでいたのだが、それが不十分であることに気がついた。

 遺族の方たちの発言に、必ず「日本の侵略」という言葉が出てくることにハッとした。「そうか。私達は日本の代表なんだ。侵略した側の代表なんだ。」と思った瞬間、緊張感が生まれ鳥肌がたった。「すごいことをやろうとしてるんだ」と思いながら踊り始めた。

 踊り始めて、またハッとした。遺族の方たちの目がこちらに集中していて、視線がつきささってくるようだった。これまでで一番見る人を意識して踊ったと思う。

 今回参加して、国を越え、立場を越えて同じ場所に集い、お互いを認めあう、そんな人のつながりが平和をつくり出すと思った。そして、その一役を担えたことがとてもうれしく思えてきた。(Y.H)


除幕式について

 私がツアーに参加したいと思ったのは、ぜひ実物の「恨之碑」生で見てみたいと思ったからです。だから実際見た時は、日本に連れて来られた方の苦労や気持ち、また建立までにこぎつけたみなさんの尽力を考えると、とても感動しました。

 その感動であまり踊りのことを考えていませんでした。ただ踊る段になってどう踊ればいいんだろうと思いました。私は豊年音頭の選曲については、田村さんのようには何も思いませんでした。エイサーの曲の中味を知らないものも多いし(それはそれで問題ですが)、もっとふさわしいのがあるかどうかを知らないからです。ただ踊るようになってどうしようと思いました。手踊りはたいてい、にこにこ明るく笑ってる姿を求められていると思うんです。豊年音頭もそうだと思います。しかし、にこにこ笑って踊るわけにはいかないと思ったし、かといって真面目な顔も違う気がしました。いかに踊るかを下さんとも手踊り隊でも話し合えればよかったと思いました(それは今後も必要と思いますが)。そのときの踊りは豊年音頭を口ずさみながら踊りました。どんな表情になったかわかりません。ただ、みんなの韓国の方の視線をとても感じました。地面で木の根っことかあってテレビカメラがせまってきて踊りにくく強い視線があって自分でぎこちないと思いました。が精一杯踊ったつもりです。


コンサートについて

 韓国にとても行きたかったが本当に行けるかわからなかった(勤務の都合で)。無理かなあと思ったこともあったが、何とかして行きたいと思った。

 というわけで、行く手順ばかりを考えコンサートのことはあまり考えていなかった。行くつもりでもっと練習できればよかったのだが。あとから岡本さんから現地での大変さを聞いて分かりましたが、三線とかと合わせたかったし(いつでもどこでもずっとできないといけませんが)出だしが分かりにくくずっとのれなくて、下さんとも遠くから合っていないのがわかって悪いできでした。韓国の人にこれが手踊りというのが伝えられなかったのが残念ですが金城先生にも申し訳なかったです。全体のイメージはどうだったでしょうか。関西エイサーの最初の3曲は自信なくてやはりそれが出てしまった。そういう場合、途中から出るのがいいのか、下さんひとりで踊ってもらうのか、そうはいかないのかわからないです。やはり精進するしかないでしょうが、これからも手踊りを知らない人の前で踊ることもあると思うので、手踊りと名乗って恥ずかしくない、レベルの高いものをお見せしたいです。(M.E)


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